私が高校生の頃から、約6年間、ケアをしてきた母親が、がんで他界しました。
正直、あまりに急な出来事で、当時は、心の整理ができませんでした。
実は、母親が余命宣告を受けてから他界するまでの日にかけて、私は、日記のような記録を残してきました。今回は、その記録を用いて、改めて、当時の様子を振り返っていこうかと思います。
完全に私個人のお話になるのですが、近親者の死を間近に控えると、誰もがあせり、ショックを受け、心の整理ができなくなると思います。
ですので、ぜひとも、お付き合いいただき、死について少しでも考えるきっかけとしていただければと思います。
この記事を見てわかることは、以下の通り!
- 弱っていく母の様子を見て、私が感じたこと・考えたこと。
- コロナ禍での面会について。
- 死とどう向き合うか ←示唆をすることにとどまります。
残念ながら、人間は誰もが死にます。永遠の別れも何度か経験することになります。途中まででもよいですので、ぜひ、お付き合いくださいませ。
少しでも多くの方に、共感いただき、死との向き合い方を考えていけたらと思っています。
前置き、前提となること
以下、私の記録を用いて述べていくのですが、幾点か補足しておいたほうが理解しやすいと思います。よって、その補足を先にしておきます。
記録は、母が他界するまでの約1週間、毎日、ワード文書に打ったものです(2021年7月7日から15日、一部欠落)。
こうしたあまり思い出したくないことは忘れたいものです。しかし、近親者の最期を見ることは、人生で初めてのことでしたので、あえて記録に残したのです。
当初、このように、ブログサイトで公開する意図など、もちろん、ありませんでした。
次に、私の母についてです。
- 骨肉腫(骨のがん)で6年間闘病。
- 肺にがんが転移。
- 肺に転移が見つかった際、余命宣告。
余命宣告で、余命は1か月(以内)ということでしたが、実際は、1週間で逝ってしまいました。
では、それぞれの日の記録をこちらに記していきます。
7月7日
9日に行われる予定の腫瘍をとる手術に備え、入院。実は、母親の体調に鑑みると、非常にリスクが高い手術だという。
手術中に、(危篤など)何があってもおかしくないという。ただ、その手術を受けなくても、すぐに、死亡するようなことはないという。
しかし、一方で、母親は、体中にかなりの痛みを感じている。私としては、リスクを回避してほしいと思っているが、母親の痛みを察することは難しい(故に、受けるべきか否かの言及はしなかった)。
やはり、母親としては、少しでも、痛みを軽減したいといい、手術を受けることを決断した。人の痛みは、本人しかわからないということを実感した。
実は、この時点で、まだ、がんが肺に転移していることが確認されていません。
骨肉腫が体中に広がってきていて、特に、腰が痛いということで、腰の痛みを何とかしようと手術を受ける決断をしたのです。
しかし、その手術は、非常にリスクが高いということ…。
リスクとリターン
私が考えたのは、「リスクとリターン」についてです。
ファイナンス分野で、リスクとリターンという言葉がでてきます。リスクとリターンは表裏一体で、大きなリターンを期待するほど、リスクが高く、損失も膨らむ可能性があるといった感じで使われます。
上の記録の内容においても、ある種、以下のように、リスクとリターンでとらえられるかもしれません。
- リスク・・・手術によって死亡
- リターン・・・痛み軽減
ただし、死亡リスクは、非常に重みが感じられます。リスク資産に投資をして、損失を得るというリスクとはくらべものになりません。
私のような健康な者からすると、死という極めて重いリスクと引き換えに手術をする必要はないだろうと考えてしまうでしょう。
しかし、母親は、(放っておいてもすぐに死亡する可能性は低いのに)リスクが極めて高い手術をして、痛み軽減を図るという選択をしました。
ここで言いたいのは、病気による痛みや苦しみは、本人にしかわからないということです。病気を持っている本人の意見を尊重したいところです。
逆に、リスク志向的な人ならば、手術をするように強く助言をするかもしれません。しかし、その助言だけで手術を受けることを決断し、結果的に死亡したらどうでしょうか。一生、後悔すると思います。やはり、本人の意見を尊重すべきといえるでしょう。
この次の日、7月8日は欠落しています。翌9日が、手術予定日だったからです。しかし、、、。
7月9日
肺にがんの転移が確認され、手術は即刻中止に。まさか、こんなことになるとは想像もしなかった。
体調も、9日の1日だけで、急激に悪化したという。呼吸も苦しそうだった。貧血や吐き気もひどいという。
そして、この日に、余命1か月(以内)の宣告を受ける。
新型コロナの影響で、原則、面会中止ではあったが、主治医のお計らいで1人ずつではあるが、30分の面会が許可された。夜9時頃に、自宅からタクシーで病院に直行。
母親は、「もう会えなくなる」と涙ながらに言い、私も涙。泣いたのはかなり久しぶりだった。これまで、母親を中心的に支えてきた私としてはかなりつらい思いを抱いた。
これまで、家事を含めケアが大変だったが、もしかしたら、ケアが生きがいになっていたのかもしれない。
しかし、何より、一番つらいのは、死が目前に迫っている母親だろう。
母親は、これまで、病室等で友達になったがん患者の死を何度か見ているので死の恐怖は少ないのかもしれないが、やはり、家族や友達と永遠の別れをせねばならないからである(あの世で再会ができるかもしれないが…)。
手術前に、いくつか検査をしたところ、肺に末期のがんが見つかったのです。それゆえ、余命宣告を受けました。もう、どうすることもできないので、緩和の方向にということでした。
これまで、あんなに体調がよかったのに、病院に行ったら母親の様相が変貌していました。大変、ショックでした。
余命宣告を受けたら
さて、家族が余命宣告を受けたら、どうすればよいのでしょうか。
母親が余命宣告を受けたとき、もちろん私はショックを受けましたが、一番ショックを受けているのは、母親であることは言わずもがなです。
余命宣告を受けた本人が、最も、ショックを受けているはずです。本人以外の者が、後ろ向きになるのはよくないと思います。
大切なのは、宣告を受けた本人に寄り添うことでしょう。できるだけ、近くにいてやってください。
余命の期間によって、過ごし方は異なってくると思います。余命が長ければ、保険や相続などのことを考えられるかもしれませんが、やはり、最も重要なのは本人に寄り添うことだと思います。
7月10日
主治医のお取り計らいで、病室での付き添いが可能になったと、叔母から聞いた。母親の不安がその所以であろう。今日は、母親の親である(私から見ると)祖父母や母方の叔母も面会に行ったという。
祖父母には、この日も会ったが、高齢の祖父母にとっては、まだ若い娘が先に逝くことがかなり辛いと思う。祖父母の精神的な疲弊が心配である。
この日は、私は、面会に行っていません。
私の母親は病気になってしまったのですが、私の祖父母(母の親)は、高齢ながら健康だったのです。祖父母にとっては、私以上に辛い出来事だったのだと思います。
コロナ禍の付き添い・面会
新型コロナウイルス感染拡大の影響で、多くの病院では、入院患者さんとの面会が、原則禁止となっています。母が入院していた病院もそうでした。
しかし、例外が設定されている場合があります。
私の場合は、母の命が短いことから、特別に、時間の制限はあったものの、面会の許可をいただきました。一度、主治医の先生などに、相談してみるとよいかと思います。
面会が禁止ならば、付き添いについては、なおさら、制限されています。
しかし、こちらのついても、私の経験となりますが、母が一人でいることを心配していることに加え、命が短いことから、特別に認めていただきました。基本的に、夏休みを早く取得した叔母が付き添いをしてくれました。
ただし、直前のPCR検査の結果が陰性であることが条件でした。
付き添いについても、緊急の場合、認められるかもしれませんので、一度、主治医の先生などに相談してみるとよいかもしれません。
7月11日
竹内まりや「いのちの歌」はこちら(YouTube)
7月12日
母親は、救急車で、叔母の付き添いのもと、地元の病院に転院。
短い時間ではありますが、こちらの病院でも面会が認められ、夕方に面会。母親は、朝から付き添ってくれた叔母については認識をしていたが、私については、認識できなかったようだ。
叔母が、私が来たことを母親に行ったが、母親は、「何が起きているかわからない」と言っていた。
モルヒネを服用していることもあるかもしれないが、母親のさらなる変貌ぶりにショックを受けた。
そして、「しんどい」と言っていた。しんどそうなことは、私から見てもすぐにわかった。意識がもうろうとし、私を認識してはくれなかったが、とはいえ、生きている母親に会うことができ、うれしかった。
母の体調が悪化の一途をたどっていきます。
前日は、私は面会には行けなかったのですが、面会に行った身内は何とか話せていたといっていたので、ショックでした。
なお、手術のために入院した病院は、普段とは異なる大病院でした。そのため、普段から通っていた病院に転院したのです。
できるだけ落ち着くところで
母が普段通っている病院に転院した理由は、慣れていて落ち着くということです。
母がもう少し元気ならば、在宅も視野に入っていました。
最期は、やはり、慣れていて落ち着く場所で迎えたいと考える人が多いと思います。
怖いという気持ちもあるかもしれませんが、患者さんが、落ち着くところに行きたいという意思決定をしているならば、家族の皆さんは、自宅やホスピスへの移動・転院を検討してみてください。
もちろん、医療機器が充実している病院で最期を迎えたいという方もいらっしゃるかもしれません。その点は、患者さん本人の意見を尊重するようにしましょう。
7月13日
今日も面会に行った。いろいろと話しかけたが、ほとんど反応は無し。呼吸も苦しそう。悲しい。
モルヒネを打っているからというより、最期が近づいているから反応が無いということを確信した。毎日、母親の不安を払しょくするために、昼夜、付き添っていただいた叔母には本当に感謝しかない。
ところで、この日は、運転免許の更新に行った。これは、期限の1日前だったのだが、数日前、母親が元気な時に、免許の更新をなぜ早くいかなかったのか、とがめられた。母親に不安を感じさせてしまい、後悔している。
親が亡くなろうとしているとき、様々な親不孝をしてしまったなあ、と後悔してしまいます。
運転免許更新の件は、入院した日・7日にも、母より「更新に行っておきなさい」ということをメッセージアプリで言われていたので、心配をかけて申し訳ないなあという思いでした。
7月14日から15日
血圧が下がっているとの連絡が入り、大学での授業終了後、即座に、病院にかけつけた。
苦しそうな下顎呼吸を見た。足が冷たくなっているのも感じた。もう、いつ逝ってもおかしくないと感じた。
こんなこともあり、母親の両親(私からすると祖母)を含め、病室には多くの親戚が集った。遠隔地にいた弟も夜10時30分ごろに到着し、間に合った。
死んでゆく前に、母親は多くの親戚に会うことができうれしかったと確信している。
14日から翌日にかけては、叔母に代わり、家族構成員全員が病室でとまりこむことになった。
母親との様々な思い出が浮かんできた。母親は、ずっと、下顎呼吸を続けていた。私は、早朝に母親を見守ろうと、午前1時30分過ぎから4時にかけて仮眠をとった。この時間の間は、弟がずっと起きていたという。
4時過ぎに、うとうとしながらも起床。手を触ると、こちらも、冷たくなっている。かろうじて呼吸をしているが、もう厳しそうである。
5時過ぎ、母親の手を握っていると、母親の目から涙が流れていくところを見た。亡くなる直前の母親の頭には、様々な思い出が流れていたのだろう。
そして、7時前。酸素飽和度の値がしっかり表示されなくなっていたことから、父親を起こした。しっかり装着させてもらい、再び、酸素飽和度の値が表示された。
しかし、そのとき、酸素飽和度の値がどんどん下がっていった。いっきに80%ほどまで下がった。
父親が脈を確認したが、触れなかったという。呼吸もかなり薄くなっていくことを目の当たりにした。数分の出来事で、本当に急だった。
そして、午前7時前後、最後に一息をして、以降、呼吸が止まった。
母親が他界してしまったのである。「ありがとう、安らかに」という言葉を心の中で唱えた。死ぬ直前、そして、死ぬときまで、身内に囲まれていた母親は本当に幸せだっただろう。
死亡の正式確認は、午前7時40分。当直の先生ではなく、いつもお世話になっていた主治医の先生が早く出勤いただき、死亡の確認をしていただいた。
その後は、多くの親戚が母親のもとを訪れた。また、看護師さんに体中をきれいにしてもらい、服を着せてもらった。他界してからも母親は幸せだったのだろうと確信している。
最終日の記録です。少し長くなり恐縮です。結局、余命宣告された日から、1か月も持つことなく、1週間で他界しました。50歳でした。
コロナ禍という時期であるにもかかわらず、地元の病院で母を最期を看取ることができました。親戚の面会も認めていただきました。感謝です。
人が死にゆく瞬間を初めてみました。こんな感じで亡くなるのだと。
びっくりしたのは、他界する数時間前に、母親がかすかに涙を流していたことです。
この世とのお別れをしていたのか、、、わからないです。
死と向き合うということ
仏教用語に「生老病死」という言葉があります。人間が避けられない4つの苦しみのことです。
この中で、私たちは、どうも、「死」だけは深く考える機会が少ないと思います。
当然、「死」というネガティブなことは、生きているうちは考えたくないと思うことは、普通のことです。
しかし、日本では、多死社会が到来したといわれています。「死」の質というものも重要になってくると思います。
豊かな「死」だけでなく、豊かな「生」を達成するためにも、「死」について考えていくことは非常に大切なことだと思います。
実は、私も、「死」についてはこれまで考えたことがありませんでした。母の「死」をきっかけに、今後、当サイトで、「死」について考えていきたいと思っています。